日本で生産されるまでの世界の流れ 1

 明治維新がおこる20年前の1848年、アンデルセンの童話「マッチ売りの少女」が発刊された。この頃のヨーロッパでは、すでにマッチが日常的に使用されていた事がうかがえるが、現在のような「安全マッチ」ではなく、軸木の先に黄燐をつけ、どこで擦っても発火した「黄燐マッチ」であった。

 1826年、イギリスの薬剤師「ウォーカー」が軸木の先に黄燐を付けたいわゆる「黄燐マッチ」を発明し、翌1827年に実用化された。砂紙の間にはさんで、強く引いて点火したが、初期のものは、簡単には発火しないうえ、発火しても軸木に着火しにくいものであった。その後、各国で改良がなされ、1831年にフランスの「ソーリア」と「カメレール」によって、どこで擦っても容易に発火するものが開発された。

 ただ、黄燐マッチは毒性が強く、製造に従事する人が、黄燐を含む蒸気を吸い込み、あごの骨が分解する治療不能の骨エソや骨火症をひき起こしたり、幼児がマッチの頭部をなめて命を落したり、殺人や自殺などに使用された事もあった。さらに、移動中の摩擦や衝撃による火災事故も頻発したため、より安全なマッチの開発が待たれた。

 1850年前後から赤燐を用いたマッチの開発が、ヨーロッパ各国ですすめられていたが、1852年、スウェーデンにあったヨンコピング社のルンドストレームがリンを含まない頭薬を点着した軸木を小箱に納め、その箱の側面に赤燐を側薬として塗布した分離型の「安全マッチ」を発明し、特許を得た。そして彼は1855年、純粋な赤燐を用いた「スウェーデン式 安全マッチ」を製造して広く販売した。

 安全マッチが普及していく中で、各種の新しい工夫がなされて行ったが、その中で、どこで擦っても発火した黄燐マッチの便利性を根強く要求する声もあった。1864年、フランスのルモアンが毒性の少ない「硫化リン」を発見したが、その34年後の1898年、フランス専売公社のカーエンとサベーヌが硫化リンを使った摩擦マッチを作り、特許を得た。イギリスは1900年、フランスの許可を得て「硫化燐マッチ」の生産を始めた。

 一方、アメリカでは黄燐マッチの毒性などについての認識が高まる中でも、その需要は一向に衰えず、輸入に禁止的重税を課したが、国内生産はあいかわらず継続した。しかし1920年、ワシントン国際労働会議の決議により、1922年6月限りで黄燐マッチの国内製造も全面禁止され、それに代わってどこでも擦れる「硫化燐マッチ(SAW)」が作られるようになった。

 アメリカでの硫化燐マッチは、西部劇の中で、カウボーイが靴の裏やベルトのバックルに擦って点火し、喫煙するシーンによく見られる。これはアメリカ人の好みに合っており、「硫化燐マッチ」が黄燐マッチに代わる人気商品の座を、「安全マッチ」と並んで占めるようになった。