日本マッチ産業の創始者 清水 誠 1

 日本でマッチが生産され普及するのは、明治維新以降である。日本のマッチを語るとき「清水誠」(1845〜1899)の名を抜きにしては語れない。

 金沢藩士「清水誠」は慶応元年(1865年)、20歳の時、藩の選抜を受けた加賀藩士の子弟とともに、洋学修業のため長崎へ派遣された後、明治元年(1868年)横浜に移った。横浜では幕府がフランスから招聘した、横須賀製鉄所首長「ヴェルニ」に入塾、器械学を修業した。ヴェルニは慶応元年に来日、横須賀をツーロン、横浜をマルセイユに見立てて造船所を建設しようとしていたので、優秀な日本人青年に造船技術を習得させるために、フランス語と基礎学科を教授する「造船学校」を設け、そこで学んだ青年たちを試験で厳選し、優秀と認めたらフランスへ留学させた。

 しかし、明治元年(1868)は江戸幕府が崩壊した年でもあり、明治政府の命令で造船学校が閉鎖された年にもあたる。従って、「ヴェルニ塾」は私的な塾であったと思われ、清水誠のフランス留学は、ヴェルニが清水誠を高く評価した結果であると思われる。

 明治2年(1869)、清水誠は金沢藩の公費にて、フランス留学の途についた。従来、彼は明治3年に留学した事になっていたが、国立公文書館の「公文類聚」、在仏留学生監督の入江分郎が明治5年に作成した「留学生氏名控」、さらに、横浜開港資料館に所蔵してある「THE JAPAN TIMES OVERLAND MALL」明治2年5月28日付け紙上の船客及び船荷欄には、1869年5月12日に出航した船客名にヴェルニとともに清水誠の名が記されている。なお、フランス到着は7月2日であった。

 明治4年(1871)の廃藩置県にともない、文部省留学生となり、この年の冬、パリ工芸大学に入学し勉学に励んだ。外国人ながら首席であったが、明治7年(1874)春には惜しくも文部省が、海外留学制度を全廃した。同じ年の夏、当時ヨーロッパを外遊中であった、宮内次官「吉井友実」に、輸出入の均衡を図るため、マッチの製造を勧められて研究した(種類は黄燐マッチであったと思われる)。その年の10月帰国した。

 明治8年(1875)4月、東京市三田四国町の吉井氏別邸に仮工場を作り、マッチの製造(黄燐マッチ)を始め、試売したところ大変好評を得たが、清水誠の留学の本来の目的は、「造船」であったので、政府からはそれに関連した辞令が出された。同年6月、横須賀造船所勤務を命じられると、代理人にマッチ業を管理させて、官務の余暇には常に上京して、これを監督した。この間の明治9年(1879)9月、三田の仮工場を廃止して、東京本所柳原町に資本金10万円の本格的なマッチ工場「新すい社」を創設する。

 創設当時は維新直後であり、失業者が街にあふれ、士族授産、貧民救助論が叫ばれていた。清水誠は機械化よりも手作業を重視し、また日本婦女子の習慣に倣って座業とした。内務郷「大久保利通」、大蔵郷「大隈重信」は、数多くの失業者を雇用して生産している発足したばかりの「新すい社」を視察し、賞詞を惜しまなかった。

 当時、マッチの需要は増加していたが、前途多難であった。この時、大久保利通は清水誠に対して、「造船は大変重要な事業であるが、ほかにも人材はいる。マッチについては私事ではあるが、国家の輸出入に関する重要な事であるので、退官して専念せよ。」と言ったと伝えられている。明治9年(1879)12月の事である。